うつくしさとおもしろさ(緑花フォーラムねた繰り)

 今週末に「あわじ総合緑花プラン推進フォーラム:淡路らしい緑花活動について」というフォーラムで30分ほどしゃべらなくてはならない。所属している学校の性格上、こういう案件に対応するのは大切な業務である。フォーラム主催の県民局では、ここ数年、自生種による「緑花」を推進している。ここでいう「緑花」とは,花壇やコンテナの設置・植栽によって市街地や農村集落を花で修景しようとする活動を指すようである。主催者から僕に与えられたお題は「淡路の野の花をみなおそう」。僕自身は自生種緑化(緑花ふくむ)についてはいろいろと言いたいことがあって、これまでにも緑化に携わる人と話す機会があるときには国内外来種や遺伝子汚染の話をしてきた。今回のフォーラムでは、与えられたお題で何をしゃべろうか、ちょっと考えてみた。考えるうち、以前から感じていたもやもやをはっきりさせてみたい、という気になってきた。以前から感じていたもやもやとは、緑花のひとたちが「自生種」「自生種」といえばいうほど感じてしまう違和感のことだ。そして、こちらの思いに理屈をつけてもなかなか伝わらないもどかしさのことだ。この違和感のおおもとは、緑化の人と野の花を好む人との間で「自生種」にもとめるものがぜんぜん違うということではないか。もどかしさのおおもとは、お互いの大切に思うポイントが明示されていないからではないか。
 緑花に自生種を導入したい人は自生種になにをもとめているのだろう?
 野の花を大事に思うひと(にもいろいろあるだろうから、ここでは「少なくとも僕」)は、野の花のなにを大事に思っているのだろう?
 この部分、野の花の何を大事におもっているかを緑花の人に伝えたい、と思う。そのこたえのひとつが「うつくしさ」と「おもしろさ」の違いかなあ、と。安直ですが。ちんぷですが。ありがちですが。そのうえマト外したかもしれませんが。
 たしかにハマナデシコとかハマボッス、花壇にあってもうつくしい。でも、海岸に生えているハマボッスハマナデシコは、そのうえさらに、おもしろい。おもしろさについて掘り下げていけば,「おもしろい」を引き出すためには、現地での保全に行き着かざるを得ないかもしれない。「おもしろさ」を生み出す物や現象の多くは「現地に生えてこそ」のものなので。(追記:さらにいえば,「うつくしさ」を目指した自生種による緑花活動は,地域性(しかもこれ自体が明瞭でない)を無視した植栽によって,その周辺の野生の植物の持つ「おもしろさ」を損なうおそれがあるかも.ことここにいたると価値観と価値観の衝突になるので,だんだんと講演むきのネタから遠ざかり,奥歯にものがはさまってごにょごにょいうのか,わたくしは?いいのかそれで)
 今回、ネタのベースは11月の学校祭でのポスター(畦畔草原の植物)にしようとはじめから思っていたので、畦畔の植物についてその「うつくしさ」と「おもしろさ」を考えてみよう。また、花壇の緑化の話からはじめて、花壇の枠レンガをとりはらったもの(?道ばたや畦の草むら)のおもしろさを紹介し、さらには、畦畔の保全(管理の担い手がいなくなって荒れ放題の畦畔を刈り取る行為)は自生種による地域の緑花になるのではないか、という話をしてみよう。